無目的英語学習者の日記

進学にも就職にも昇進にも関係なく、心のおもむくままに英語を学んでいます。

「もしも英語が使えたら」と思っていた頃と今の自分のこと。

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もしも英語が使えたら。

そうやって思って憧れていた頃がある。

多分、中学校に入学して英語を学び始めた12歳のときから、

憧れていた。

すごくかっこいい女性になれると思っていた。

 

でも私はずっと教科としての英語を学ぶばかりで、

「帰国子女でもないのに、英語が好きなんて言いにくい」と思っていた。

自分が「英語を使う」なんておこがましいと思っていたし、

そんなレベルに到達してないし、このさき到達するとも思えないし、

なんなら「英語が好き」って言うことすら、ふさわしくもないと思っていた。

クラス一のイケメンに間違えて恋しちゃった子みたいになっていた。

 

だからずっと英語には思いを伝えずにいた。

でも失礼のないようにしていたと思う。

中学生で初受験した英検3級で「statue of libaty」を「スタッチューオブライブラリー」と読んで撃沈したあとは、

高校生で英検準2級、2級を取って、

大学生で短期(3週間、オレゴン)と長期(10ヶ月、マニラ)の留学をして、

働くようになってから準1級、1級を取った。

 

それからの10年ほどは、ぱったりと英語を使わなくなってしまった。

 

どうせ今からやったってたかが知れてるよね、と思うようになってしまった。

ずっと好きだったのに。

勉強する意味ある?と思うようになってしまった。

あんなに好きだったのに。

 

でもパンデミックが始まって、

友達とも会えなくて、

誰かに話を聞いてもらいたいのに誰にも上手く話せなくてモヤモヤしていた頃、

手を差し伸べてくれたのは英語である。

 

「君ずっと俺のこと好きでいてくれたよね?」

と言わんばかりに、

今度は英語がずっと私の近くにいてくれた。

 

日本語では扱いにくい、

「こんなこと言ったら心配かけちゃう/ドン引かれる/ヤバイ人認定まっしぐら」なトピックも、

英語のフィルターにかければなんとなく成立しちゃう不思議。

 

英語にどれだけ、私の黒い感情を吸収してもらったことか。

 

そのあと中国語や韓国語を学んだりもしたけど、

first loveだったんだ、英語は私の。

 

「英語を使えるかどうか」というのは、

abilityの、能力の問題ではなくて、

いつも使っているというactionの、行動の話なのだ。

 

今もさっきオンライン英会話で日本の教育のことについて話してきた。

多様性を重んじないとか、

単一的な文化とか、

ユニークな個性を伸ばさない傾向とか、

英語ではどんなふうに表現するんだっけと、立ち止まりながら。

時制、冠詞、前置詞などで間違いを繰り返しながら。

 

それが私の英語である。

 

私は間違えるし、知らないことも多い。

英語を使えているかと聞かれたら、

「えっ私より上手い人はたくさんいます…英語の専門教育も受けたことないし」

と言いたくなる。

 

でも「英語を使えるかどうか」というのは、

能力の問題ではないのと同じくらい、自信や資格の話でもない。レベルの話でもない。

行動が、意志が、「英語を使えているか」を決める。

 

英語を使うという意志と、行動がすべてなのだ。

 

英語を「かっこよい…」と思って憧れた12歳の春。

あれから30年の時間が経ち、

12歳の私が今の自分を見たらなんていうだろうか。