英語学習に理由も目的も要らぬと考えているし、
このブログ自体も「無目的英語学習者」と自分のことを言っているのではあるけれど、
今日は誰にも遠慮なく、ホントのところを書いてみようと思う。
かわいそうかもしれないし変かもしれないし、
その両方かもしれないが、
私は元気なので「そういう人もいるのか」と思っていてほしい。
私は母語であるところの日本語が好きなんだけれど、
ときどきどうしょうもなく絶望することがある。
たくさんの分かり合えない人がいることに。
自分の日本語能力(コミュニケーション能力)にも多大に問題があろうけれども、
「一応何の苦労もなく操れる母語なのに」
「相手の言ってることがわかりません」
「こっちの言ってることも通じてる気がしません」
という事態は非常に私を消耗させ、苦しめる。
そういう苦しみが私にとってはとても深いので、
「英語なのに、外国語なのに、何を言っているのかわかる!!!なんで???!!」
と、毎日毎日新鮮な驚きを得る。
文法も発音も違うのに!!!!語学ってすごい。
「今、私、相手の言ってることがわかる」
「今、私、相手に言いたいことが伝えられている」
ということが常に新しい。常にうれしい。
話は変わるが、7人の小人のように、
人にはそれぞれ貴重となる性格があるとするならば、
私は確実に「sad」である。
私は基本的にひたすら淋しい。
淋しいので、この淋しさを何かで埋める必要があるのだが、
英語はちょうどよく、この淋しさを埋めてくれる。
何しろ覚えることがたくさんあるから退屈しない。
自分のできなさに、余計にsadnessの深みにはまることもあるけれど、
青に青を塗っても青なので、
基本的には気にならない。
それに私は自分に甘いし自分が大好きなので、
自分のできなさの悲しみなど、
母語で通じ合えない人にめぐり合ったときの悲しみに比べれば鳥の羽のように軽い。
淋しい人間なりに「人の役に立ちたい」という願いはあって、
その気持ちを満たすために献血に行ったりもするんだけど、
まだまだのレベルであるとはいえ、私の英語でお役に立てることがあるのはうれしい。
そのうえ、この社会は英語を勉強している人に一定の価値付けをしてくれる傾向があるので、
「英語を勉強してるの?スゴイ!」と言ってもらえるのがなんともお得である。
その実態は、
自分の内なる淋しさの業火を埋めるためにせっせとバケツの水をかけてるだけのことなのに、褒めてもらえるんである!!
今の私は放っておいても英語を学習する自走システムの中に居るので、
私の内燃機関では自然に英語学習のモチベーションが湧いている。
2020年5月25日に英語学習を開始してから、
「今日は英語勉強したくない」と思った日はない。
きっと私は一生淋しいと思う。
一生淋しいままでいたいと思う。
「その思いがあるかぎり おめえはきっと生きてゆくだろうからな」